地球上にあふれる幸せと恵みを、ちょこちょこと発掘するためのダウジング的ツール☆
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ほぼ二週間ぶりに現れたと思いきや
いきなり休止宣言を発令する
オキテ破りなハピグレですみません(笑)!
って、すでに実際は休止状態じゃん
いまさらわざわざ宣言することあるかいな・・・
と思わないでもないんですが、
きっちり「止める」と言っておかないと
自分が!(他人ではなく・笑)
なんだか気持ち悪いんですね(汗)
mixiにも書いたのですが、
以前は天から滝のように降り注いでいた言葉の雨が
ここしばらくはまったく降ってこないのです。
実は私は文章を作るのに、いつも苦労しない人間です。
胸に湧き上がってくる形の無い思いを
ほぼオートマティックに丁度いい手触りの言葉に置き換えることが出来ます。
この間、ほとんど脳味噌を使っていませんので
キイを打つ指の動きに
PCの変換能力がついてこられないこともしょっちゅうです。
けれど、もとになっているものは
「胸に湧き上がってくる強烈な思い」
なんですね。
「どうしても書きたい、これを訴えたい」
と思うもの以外を、文章にすることが出来ません・・・
というか、正しくは
自分が納得のいく文章にすることが出来ません・というべきなんでしょうが。
あ、これ書こうかな・・・
と思ったことでも
ちょっと時間がたってしまうと
「いいか、別に」
となってしまう・・・
どうしても・という部分が無い為か、
本当にあっという間に思いが自然消滅してしまうカンジです。
感情はクリアに湧いてくるけれども
以前のように
それに絡んで話を発展させる「気」がないんでしょうね(笑)!
この
「胸に湧き上がってくる強烈な思い」・・・
これを感じることのできる瞬間ってとても素晴らしいですよね


だって
「おお、私いま生きてるよ!!!」
って直に実感できるから


それで、しばらくは
純粋にその瞬間の喜びに浸るために
言葉じゃなくて感覚の世界に集中して生きてみたいな~と
思ったりしています。
「胸に湧き上がってくる強烈な思い」
の経験が蓄積されていったら、
そのうちまた文字に顕して
表現してみたいという気分が出てくることでしょう
では皆さん、唐突ですが
またお会いする日までご壮健で・・・


ちなみにmixi日記も休止しますが
メッセは生きておりますので
ご連絡等おありの方はどうぞそちらでお願いいたします~
いきなり休止宣言を発令する
オキテ破りなハピグレですみません(笑)!
って、すでに実際は休止状態じゃん

いまさらわざわざ宣言することあるかいな・・・
と思わないでもないんですが、
きっちり「止める」と言っておかないと
自分が!(他人ではなく・笑)
なんだか気持ち悪いんですね(汗)
mixiにも書いたのですが、
以前は天から滝のように降り注いでいた言葉の雨が
ここしばらくはまったく降ってこないのです。
実は私は文章を作るのに、いつも苦労しない人間です。
胸に湧き上がってくる形の無い思いを
ほぼオートマティックに丁度いい手触りの言葉に置き換えることが出来ます。
この間、ほとんど脳味噌を使っていませんので
キイを打つ指の動きに
PCの変換能力がついてこられないこともしょっちゅうです。
けれど、もとになっているものは
「胸に湧き上がってくる強烈な思い」
なんですね。
「どうしても書きたい、これを訴えたい」
と思うもの以外を、文章にすることが出来ません・・・
というか、正しくは
自分が納得のいく文章にすることが出来ません・というべきなんでしょうが。
あ、これ書こうかな・・・
と思ったことでも
ちょっと時間がたってしまうと
「いいか、別に」
となってしまう・・・
どうしても・という部分が無い為か、
本当にあっという間に思いが自然消滅してしまうカンジです。
感情はクリアに湧いてくるけれども
以前のように
それに絡んで話を発展させる「気」がないんでしょうね(笑)!
この
「胸に湧き上がってくる強烈な思い」・・・
これを感じることのできる瞬間ってとても素晴らしいですよね



だって
「おお、私いま生きてるよ!!!」
って直に実感できるから



それで、しばらくは
純粋にその瞬間の喜びに浸るために
言葉じゃなくて感覚の世界に集中して生きてみたいな~と
思ったりしています。
「胸に湧き上がってくる強烈な思い」
の経験が蓄積されていったら、
そのうちまた文字に顕して
表現してみたいという気分が出てくることでしょう

では皆さん、唐突ですが
またお会いする日までご壮健で・・・



ちなみにmixi日記も休止しますが
メッセは生きておりますので
ご連絡等おありの方はどうぞそちらでお願いいたします~

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その2の続きです
前半を「アティテューディナル・ヒーリング」とは何ぞや・という
勉強会に費やして、
残りの時間はその学んだことを
早速グループ内で体験してみる・という作業に入ります。
十人くらいのグループを作り、
それぞれ持ち時間5分間で
自分の話をします。
ただし留意しなければならないのは
「自分自身の今の気持ち」
にフォーカスした話題を選ぶということです。
たとえば
「今はちょっと緊張しています。なぜなら・・・」
とか
「なんだかちょっとがっかりしています。それは・・・」
など。
しかしこの実習では
実は話し手が主役ではありません。
話題を提供する人は、あくまでも実験材料を提供しているに過ぎないのです。
メインは「聴く」という姿勢です。
そして聴いている人たちには、
誰かの話が終わっても決してコメントを発しないことが要求されます。
もちろん話された内容に対してアドバイスを行うこともタブーです。
とにかく無心になって相手の話だけを聴く、
自分の内部のストーリーに耳を貸さずに・ということです。
そしてこのワークを行うことによって私たちは、
自分がいかに人の話を聴いているふりをして
自分内の・自分限定の信念に基づき
相手の状態を評価しているのかがはっきりと解るのです。
「そんなことで悩んでいるんだ~。もっとこうすればいいのに・・・」
「暗いねー。そんなんだからそうなんだよ、もっと前向きに生きなきゃ・・・」
「そりゃひどいや。放っておいたらマズイんじゃない?専門医に相談するとか・・・」
「君のせいじゃないよー、相手が悪すぎたんだよ。僕だったら・・・」
・・・
普段、私たちが繰り広げている会話とは
そんなようなものだと思います。
最初はグループ内でも
各自が披露する様々な痛みや苦しみの感情に
翻弄されたり共感したり同調したりする傾向がありますが。
意識して徹底的に「聴く」ことに集中していくと
やがてほとんど無我の境地に至っていくから不思議です(笑)
そしてこのワークが終わると分かれていたグループはまた一つになって、
「他人の話に対する感想」ではなく
「自分がどういう感覚になったか」
「自分の内部では何が起こっていたか」
を発表しあいます。
最後にそれぞれが今日のワークショップの感想を短く述べ、
(長く述べても構わないのですが、強制ではないので拒否もできます)
お開きとなります。
皆さんの話からすると、
普段よくおしゃべりをする人は
黙って人の話を聴いていることに苦痛を感じたり
怖れを抱いたりすることが多いようです。
しゃべる・という行為によって常に自己アピールをしているため、
しゃべらないでいる自分というものが
まったくの役立たずで価値の無い存在であるように感じられるそうです。
いかに自分の中に
「発言せねば・何か気の利いたことを言わなければ」
という強迫観念が根付いているかが解った・ということでした。
私の場合は逆で、
普段からさほどおしゃべりではありません。
むしろ黙って人の話を聴くことが多いので、
今回沢山の方の話を聴くことに対しては
まったく苦痛を感じませんでした。
だからこそ気がついたのですが、
これが家族や近しい人の話となると一転して
悲しい話に一緒に傷つき、辛い話に心を痛めることが多いということは、
日ごろ私が
いかに自分の愛する人々に対して
「この人たちは私と関わっている以上、
この私の目の前で
決して傷ついたり苦しんだりしてはいけないのだ」
という強烈な思い込みを抱いていたか・・・ということなのです!
なぜ「私」はそんなことを思い込んでいるのでしょう?
その「思い込み」は真実なのでしょうか?
いいえ、真実であるはずがありません。
この世界で繰り広げられている現実は
「私の目の前であろうと無かろうと
私の愛する人は傷つくし、苦しむ」
ということなのです。
その現実と決して相容れない理想、信念を握り締めているから
「私」は彼らの体験談に共に深く傷ついて
彼らの話を聴くことに対して苦痛を伴ってしまうのです。
「・・・なんだ・・・。そういうことか・・・」
自分で答えを導き出してしまうと、
驚くべきことが起こりました。
私はこれ以降、
誰のどんな話を見聞きしても
まったく心が動揺しなくなったのです
!!!
感情が無くなったわけではありませんよ(笑)
むしろ以前よりもダイナミックに共感できるようになりました。
喜びの報告に、一緒に喜んだり
残念な結果に、心から残念だったねと言えたり。
比べてみると、前はバリアーを張っていたのが解ります。
自分の心を守るための保護膜、結界のようなものです。
本当に傷つかずに済むのですが、
これがあると喜びの感情や楽しいという感情にさえ
一枚薄いベールがかかったような手触りになるのです。
私はずいぶん長いこと、家族に、というよりも自分自身に嘘をついてきました。
全然「よかった」なんて思ってもいないのに「よかったね~」と言ってみたり
全然嬉しくも無いのに「ありがとう」と微笑んでみたり。
どうでもいいや・と思っていることに長時間耳を貸していたり
時間の無駄だと感じていることに付き合ってみたり。
美しいとも思わないものを褒めてみたり。
心なんか動かされてもいないのに、感動したふりをしたり。
すべてうわべだけです。
見せかけです。
皆がそういう風に言っているから、
そうなんだろうと思っただけです。
本当の「私」はただの一度も
ピカソやモーツアルトを天才だと思ったことはないし、
書家が書き上げた大作を見て心を打たれたことなんてありません。
まして自分の配偶者の愚痴なんて
道路に落ちている意味不明の軍手くらい、どうでもいいものなんです。
それでも愚痴に心が痛むのは
「私の世界に悲しみや苦しみがあるのは許さん
」
という凝り固まった『考え』の為だったんです。
私は、ずいぶん長いこと
どこか「ここではない本当の場所」を捜し求めて
空虚な気持ちで生きていました。
たいていの瞬間に、
「いま」という時間に生きていることはありませんでした。
とうに終わってしまった過去か・・・
予想もつかない未来か・・・
いずれにしても「現在」にいることは滅多にありませんでした。
それでも
「良き母・良き妻・良き友人・良き人間」
の仮面を被り続けてきたのは、
この世界ではそういう姿勢を
(内面がどうであれ)
取っていることが大事なのだと
無意識のうちに信じていたからです。
それが周囲との軋轢を生まない最もベストな選択であるという「考え」を
強く握り締めていたためです。
でも、もう自分自身を偽りません。
自分に正直に接していきます。
齢39歳にしてようやくですが(笑)
「自分を愛する」という言葉の意味が解るようになりました。
それは
飲みにいったりセラピーにいったり映画を見に行ったり
ご褒美と称して自分に何か高価なものを与えたり
嗜好品ざんまいのひと時を確保して幸福感に浸ったり・
とかいうものではありません。
それらはひと時の心の慰めには成り得ても、
本質的な部分で
なんらの変化も生み出さない気休めに過ぎないことが解りました。
本当に・・・
自分を愛するということは簡単です。
お金も時間もかかりません。
ただ
「自分に正直になること」
・・・
裁いたり責めたり判断したりせずに
自分が頑なに握り締めている「考え」だけに焦点を当て、
その「考え」が自分にとって
どんな現実を見せているかを「知る」のです。
そして自分にとって
葛藤を起こさせるような「考え」を握り締めている「私」を発見したら、
優しく自分に問い直してみるのです・・・
・・・・・「その『考え』は本当ですか?」
次回は、ADHジャパン代表の水島広子さんが訳した
『探すのをやめたとき愛は見つかる~人生を美しく変える四つの質問~』
という本をご紹介したいと思います。
長い文章にお付き合いくださって
本当にいつもありがとう・・・
ではまた!!!

前半を「アティテューディナル・ヒーリング」とは何ぞや・という
勉強会に費やして、
残りの時間はその学んだことを
早速グループ内で体験してみる・という作業に入ります。
十人くらいのグループを作り、
それぞれ持ち時間5分間で
自分の話をします。
ただし留意しなければならないのは
「自分自身の今の気持ち」
にフォーカスした話題を選ぶということです。
たとえば
「今はちょっと緊張しています。なぜなら・・・」
とか
「なんだかちょっとがっかりしています。それは・・・」
など。
しかしこの実習では
実は話し手が主役ではありません。
話題を提供する人は、あくまでも実験材料を提供しているに過ぎないのです。
メインは「聴く」という姿勢です。
そして聴いている人たちには、
誰かの話が終わっても決してコメントを発しないことが要求されます。
もちろん話された内容に対してアドバイスを行うこともタブーです。
とにかく無心になって相手の話だけを聴く、
自分の内部のストーリーに耳を貸さずに・ということです。
そしてこのワークを行うことによって私たちは、
自分がいかに人の話を聴いているふりをして
自分内の・自分限定の信念に基づき
相手の状態を評価しているのかがはっきりと解るのです。
「そんなことで悩んでいるんだ~。もっとこうすればいいのに・・・」
「暗いねー。そんなんだからそうなんだよ、もっと前向きに生きなきゃ・・・」
「そりゃひどいや。放っておいたらマズイんじゃない?専門医に相談するとか・・・」
「君のせいじゃないよー、相手が悪すぎたんだよ。僕だったら・・・」
・・・
普段、私たちが繰り広げている会話とは
そんなようなものだと思います。
最初はグループ内でも
各自が披露する様々な痛みや苦しみの感情に
翻弄されたり共感したり同調したりする傾向がありますが。
意識して徹底的に「聴く」ことに集中していくと
やがてほとんど無我の境地に至っていくから不思議です(笑)
そしてこのワークが終わると分かれていたグループはまた一つになって、
「他人の話に対する感想」ではなく
「自分がどういう感覚になったか」
「自分の内部では何が起こっていたか」
を発表しあいます。
最後にそれぞれが今日のワークショップの感想を短く述べ、
(長く述べても構わないのですが、強制ではないので拒否もできます)
お開きとなります。
皆さんの話からすると、
普段よくおしゃべりをする人は
黙って人の話を聴いていることに苦痛を感じたり
怖れを抱いたりすることが多いようです。
しゃべる・という行為によって常に自己アピールをしているため、
しゃべらないでいる自分というものが
まったくの役立たずで価値の無い存在であるように感じられるそうです。
いかに自分の中に
「発言せねば・何か気の利いたことを言わなければ」
という強迫観念が根付いているかが解った・ということでした。
私の場合は逆で、
普段からさほどおしゃべりではありません。
むしろ黙って人の話を聴くことが多いので、
今回沢山の方の話を聴くことに対しては
まったく苦痛を感じませんでした。
だからこそ気がついたのですが、
これが家族や近しい人の話となると一転して
悲しい話に一緒に傷つき、辛い話に心を痛めることが多いということは、
日ごろ私が
いかに自分の愛する人々に対して
「この人たちは私と関わっている以上、
この私の目の前で
決して傷ついたり苦しんだりしてはいけないのだ」
という強烈な思い込みを抱いていたか・・・ということなのです!
なぜ「私」はそんなことを思い込んでいるのでしょう?
その「思い込み」は真実なのでしょうか?
いいえ、真実であるはずがありません。
この世界で繰り広げられている現実は
「私の目の前であろうと無かろうと
私の愛する人は傷つくし、苦しむ」
ということなのです。
その現実と決して相容れない理想、信念を握り締めているから
「私」は彼らの体験談に共に深く傷ついて
彼らの話を聴くことに対して苦痛を伴ってしまうのです。
「・・・なんだ・・・。そういうことか・・・」
自分で答えを導き出してしまうと、
驚くべきことが起こりました。
私はこれ以降、
誰のどんな話を見聞きしても
まったく心が動揺しなくなったのです

感情が無くなったわけではありませんよ(笑)
むしろ以前よりもダイナミックに共感できるようになりました。
喜びの報告に、一緒に喜んだり
残念な結果に、心から残念だったねと言えたり。
比べてみると、前はバリアーを張っていたのが解ります。
自分の心を守るための保護膜、結界のようなものです。
本当に傷つかずに済むのですが、
これがあると喜びの感情や楽しいという感情にさえ
一枚薄いベールがかかったような手触りになるのです。
私はずいぶん長いこと、家族に、というよりも自分自身に嘘をついてきました。
全然「よかった」なんて思ってもいないのに「よかったね~」と言ってみたり
全然嬉しくも無いのに「ありがとう」と微笑んでみたり。
どうでもいいや・と思っていることに長時間耳を貸していたり
時間の無駄だと感じていることに付き合ってみたり。
美しいとも思わないものを褒めてみたり。
心なんか動かされてもいないのに、感動したふりをしたり。
すべてうわべだけです。
見せかけです。
皆がそういう風に言っているから、
そうなんだろうと思っただけです。
本当の「私」はただの一度も
ピカソやモーツアルトを天才だと思ったことはないし、
書家が書き上げた大作を見て心を打たれたことなんてありません。
まして自分の配偶者の愚痴なんて
道路に落ちている意味不明の軍手くらい、どうでもいいものなんです。
それでも愚痴に心が痛むのは
「私の世界に悲しみや苦しみがあるのは許さん

という凝り固まった『考え』の為だったんです。
私は、ずいぶん長いこと
どこか「ここではない本当の場所」を捜し求めて
空虚な気持ちで生きていました。
たいていの瞬間に、
「いま」という時間に生きていることはありませんでした。
とうに終わってしまった過去か・・・
予想もつかない未来か・・・
いずれにしても「現在」にいることは滅多にありませんでした。
それでも
「良き母・良き妻・良き友人・良き人間」
の仮面を被り続けてきたのは、
この世界ではそういう姿勢を
(内面がどうであれ)
取っていることが大事なのだと
無意識のうちに信じていたからです。
それが周囲との軋轢を生まない最もベストな選択であるという「考え」を
強く握り締めていたためです。
でも、もう自分自身を偽りません。
自分に正直に接していきます。
齢39歳にしてようやくですが(笑)
「自分を愛する」という言葉の意味が解るようになりました。
それは
飲みにいったりセラピーにいったり映画を見に行ったり
ご褒美と称して自分に何か高価なものを与えたり
嗜好品ざんまいのひと時を確保して幸福感に浸ったり・
とかいうものではありません。
それらはひと時の心の慰めには成り得ても、
本質的な部分で
なんらの変化も生み出さない気休めに過ぎないことが解りました。
本当に・・・
自分を愛するということは簡単です。
お金も時間もかかりません。
ただ
「自分に正直になること」
・・・
裁いたり責めたり判断したりせずに
自分が頑なに握り締めている「考え」だけに焦点を当て、
その「考え」が自分にとって
どんな現実を見せているかを「知る」のです。
そして自分にとって
葛藤を起こさせるような「考え」を握り締めている「私」を発見したら、
優しく自分に問い直してみるのです・・・
・・・・・「その『考え』は本当ですか?」
次回は、ADHジャパン代表の水島広子さんが訳した
『探すのをやめたとき愛は見つかる~人生を美しく変える四つの質問~』
という本をご紹介したいと思います。
長い文章にお付き合いくださって
本当にいつもありがとう・・・
ではまた!!!
お待たせのアティテューディナル・ヒーリング体験談です(笑)
7月29日、恵庭市民会館の一角で行われた
ADHレベル1のワークショップに参加してまいりました。
前述の日記に書きましたとおり、
ADHとは「心の姿勢を学ぶこと」によって
自らの意思で自らを癒す「考え方」のことを言います。
15人くらいのレベル1参加者に対して
ファシリテーターと呼ばれる指導員が3・4人くらいいます。
今回は北海道で行われる
初めてのワークショップということで、
東京からADHジャパンの代表者である
水島広子さんというファシリテーターがいらっしゃっていました。
彼女の経歴は非常にユニークです。
ジュリー・ジャンポルスキー博士と同じ精神科医でありながら
衆議院議員も経験なさっています。
国会議員と言うと、とてもギラギラしていて脂ぎったイメージが私にはあるのですが(笑)
水島さんのさわやかな人柄の中には
そういった「いやらしさ」がいささかも感じられませんでした。
ADH北海道というグループもすでに起動しており、
代表者のファシリテーター・瀬川真弓さんも
水島さんのサポートとして参加されていました。
参加者は圧倒的に女性が多いのですが、
年齢は20~60代までと幅広く集まっていました。
6時間のワークショップの中で
前半はひたすらアティテューディナル・ヒーリングについての
知識を学んでいきます。
ADHには
「指針」「原則」「考え方」「バランスシート」という項目があります。
たとえばまず始めに教わる「指針~ガイドライン~」には
以下のような約束事がありますが、
ここで重要なのは理解度60%くらいを目指すということです。
100%、完璧なる理解を目指さなくてもOKだと何度も諭されます。
ADH的な考え方においては
「完璧主義」という性癖も
「完璧になれないことへの怖れ」が表面化したものと定義されるからです。
1・グループの目的は、心の平和の選択を実践すること
2・グループの中では「聴くこと」に意識を集中する。
開かれた心で人の話を聴くことや、お互いに支えあうこと、
評価を下さずに人の話を聴き自分の話をすることを実践する
(レベル1はこのスキルを習得することを目標にしています)
3・グループに参加するのは自分を癒すためであり、
人にアドバイスをしたり
人の信念や行動を変えたりするためではない
(特に『人の話はしっかり聴いても、決してアドバイスを行わないこと』を
このレベル1では目指しています)
4・自分自身の体験に基づいた話をする。
自分の感情を思い切ってさらけ出すことによって、
お互いの中に共通の体験を見出し
人とのつながりを感じるようにする
5・自分を含めてグループの一人ひとりをかけがえの無い存在として尊重する。
大切なことは各自のプロセスであり、
それに対して自分がどういう評価を下すかということではないことを認識する
6・各自が自分の心の声に耳を澄ますことができるよう、
お互いに支えあう
7・生徒と教師の役割は入れ替わる。
年齢・経験に関係なく、誰もが生徒になったり教師になったりすることを認める
8・「ランプのかさではなく、光だけを見る」ように心がける。
相手に自分の心を完全に向けることができるように心がける。
各自の全体性を認識し、外見や気分、行動、状況で判断しないよう心がける
9・平和と葛藤のどちらを選ぶか、
怖れに囚われるかそれとも手放すのかは
常に自分で選択できるということを認識する
(平和でなければならないとか、手放さなければならないという概念は
平和ではないことへの怖れ、手放していないことへの怖れが表面化したものと考えられる。
葛藤というプロセス、怖れに囚われるというプロセスも大事にする)
10・グループ内で話したことは全てに守秘義務が発生する。
これは「安全で信頼できる場」であるために重要である・・・
その勉強が終わるとADHの原則を学びます。
これは創始者であるジュリー・ジャンポルスキーが決定した原則ですが、
必ずしもこれが絶対のものではないこと、
各自にそれぞれの解釈があっていいことなども明言されます。
1・私たちの本質は温かい心である
2・健康とは心の平和(やすらぎ)とともにあること。
癒しとは怖れを手放すこと
3・与えることは受け取ることである
4・私たちは、過去も未来も手放すことができる
(手放さない、という選択も自由にできる)
5・存在する時間は「今」だけ。
それぞれの瞬間は与えるために存在する
6・私たちは、評価を下すことではなく
許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる
(問題のある行為を大目に見たり、変に物分りのいい考え方をしなくてもいい。
ただそれに伴う自分の苦しみや葛藤を何度もリピートしない・ということ)
7・私たちは、他人のあら捜しをするのではなく
愛を見つける人になることができる
8・外で何が起こっていようとも、心の平和を選ぶことができる
(見ないふりをする・ということではない。
心の中で湧きあがる感情を「人間らしい」と容認し、否定しないこと。
起こった問題に対して自分の気持ちを正直にとらえることに怖れない)
9・私たちはお互いに、生徒であり教師である
10・私たちは自分達を「分断された存在」ではなく
ひとつのいのち(存在)としてとらえることができる
(=私たちは自分の人生を『断片』と思うのではなく
全体として考えることができる)
11・愛は永遠のものなので、変化を怖れる必要はない
12・どんな人も
愛を差し伸べているか・助けを求めているかの
どちらかであるととらえることができる
(怒りっぽい人は、実はとても困っている人である)
ここで強調されるのは、
自分の考えや気持ちについては
はっきりと自分に責任があるのだということ、
過去に下した評価や不満を手放すことによって
人間関係を現在に引き戻して見直すことができるということ、
物事の捉え方というのは
実は私たち個々人の頭の中を映し出している鏡であるということです。
ファシリテーターのナビゲートによって、
参加者はこれらの教えについて討論と理解を深めていきます。
徹底的に、
「参加者は平等であり、アドバイスを行わない(=自分の思考判断を押し付けない=コントロールを行わない)ということの重要性を学んでいくんですね。
さて、1時間ほどの昼食休憩を取った後は
いよいよ「相手の話を“本当に”聴く」という実習に入っていきます・・・
(その3に続く)
7月29日、恵庭市民会館の一角で行われた
ADHレベル1のワークショップに参加してまいりました。
前述の日記に書きましたとおり、
ADHとは「心の姿勢を学ぶこと」によって
自らの意思で自らを癒す「考え方」のことを言います。
15人くらいのレベル1参加者に対して
ファシリテーターと呼ばれる指導員が3・4人くらいいます。
今回は北海道で行われる
初めてのワークショップということで、
東京からADHジャパンの代表者である
水島広子さんというファシリテーターがいらっしゃっていました。
彼女の経歴は非常にユニークです。
ジュリー・ジャンポルスキー博士と同じ精神科医でありながら
衆議院議員も経験なさっています。
国会議員と言うと、とてもギラギラしていて脂ぎったイメージが私にはあるのですが(笑)
水島さんのさわやかな人柄の中には
そういった「いやらしさ」がいささかも感じられませんでした。
ADH北海道というグループもすでに起動しており、
代表者のファシリテーター・瀬川真弓さんも
水島さんのサポートとして参加されていました。
参加者は圧倒的に女性が多いのですが、
年齢は20~60代までと幅広く集まっていました。
6時間のワークショップの中で
前半はひたすらアティテューディナル・ヒーリングについての
知識を学んでいきます。
ADHには
「指針」「原則」「考え方」「バランスシート」という項目があります。
たとえばまず始めに教わる「指針~ガイドライン~」には
以下のような約束事がありますが、
ここで重要なのは理解度60%くらいを目指すということです。
100%、完璧なる理解を目指さなくてもOKだと何度も諭されます。
ADH的な考え方においては
「完璧主義」という性癖も
「完璧になれないことへの怖れ」が表面化したものと定義されるからです。
1・グループの目的は、心の平和の選択を実践すること
2・グループの中では「聴くこと」に意識を集中する。
開かれた心で人の話を聴くことや、お互いに支えあうこと、
評価を下さずに人の話を聴き自分の話をすることを実践する
(レベル1はこのスキルを習得することを目標にしています)
3・グループに参加するのは自分を癒すためであり、
人にアドバイスをしたり
人の信念や行動を変えたりするためではない
(特に『人の話はしっかり聴いても、決してアドバイスを行わないこと』を
このレベル1では目指しています)
4・自分自身の体験に基づいた話をする。
自分の感情を思い切ってさらけ出すことによって、
お互いの中に共通の体験を見出し
人とのつながりを感じるようにする
5・自分を含めてグループの一人ひとりをかけがえの無い存在として尊重する。
大切なことは各自のプロセスであり、
それに対して自分がどういう評価を下すかということではないことを認識する
6・各自が自分の心の声に耳を澄ますことができるよう、
お互いに支えあう
7・生徒と教師の役割は入れ替わる。
年齢・経験に関係なく、誰もが生徒になったり教師になったりすることを認める
8・「ランプのかさではなく、光だけを見る」ように心がける。
相手に自分の心を完全に向けることができるように心がける。
各自の全体性を認識し、外見や気分、行動、状況で判断しないよう心がける
9・平和と葛藤のどちらを選ぶか、
怖れに囚われるかそれとも手放すのかは
常に自分で選択できるということを認識する
(平和でなければならないとか、手放さなければならないという概念は
平和ではないことへの怖れ、手放していないことへの怖れが表面化したものと考えられる。
葛藤というプロセス、怖れに囚われるというプロセスも大事にする)
10・グループ内で話したことは全てに守秘義務が発生する。
これは「安全で信頼できる場」であるために重要である・・・
その勉強が終わるとADHの原則を学びます。
これは創始者であるジュリー・ジャンポルスキーが決定した原則ですが、
必ずしもこれが絶対のものではないこと、
各自にそれぞれの解釈があっていいことなども明言されます。
1・私たちの本質は温かい心である
2・健康とは心の平和(やすらぎ)とともにあること。
癒しとは怖れを手放すこと
3・与えることは受け取ることである
4・私たちは、過去も未来も手放すことができる
(手放さない、という選択も自由にできる)
5・存在する時間は「今」だけ。
それぞれの瞬間は与えるために存在する
6・私たちは、評価を下すことではなく
許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる
(問題のある行為を大目に見たり、変に物分りのいい考え方をしなくてもいい。
ただそれに伴う自分の苦しみや葛藤を何度もリピートしない・ということ)
7・私たちは、他人のあら捜しをするのではなく
愛を見つける人になることができる
8・外で何が起こっていようとも、心の平和を選ぶことができる
(見ないふりをする・ということではない。
心の中で湧きあがる感情を「人間らしい」と容認し、否定しないこと。
起こった問題に対して自分の気持ちを正直にとらえることに怖れない)
9・私たちはお互いに、生徒であり教師である
10・私たちは自分達を「分断された存在」ではなく
ひとつのいのち(存在)としてとらえることができる
(=私たちは自分の人生を『断片』と思うのではなく
全体として考えることができる)
11・愛は永遠のものなので、変化を怖れる必要はない
12・どんな人も
愛を差し伸べているか・助けを求めているかの
どちらかであるととらえることができる
(怒りっぽい人は、実はとても困っている人である)
ここで強調されるのは、
自分の考えや気持ちについては
はっきりと自分に責任があるのだということ、
過去に下した評価や不満を手放すことによって
人間関係を現在に引き戻して見直すことができるということ、
物事の捉え方というのは
実は私たち個々人の頭の中を映し出している鏡であるということです。
ファシリテーターのナビゲートによって、
参加者はこれらの教えについて討論と理解を深めていきます。
徹底的に、
「参加者は平等であり、アドバイスを行わない(=自分の思考判断を押し付けない=コントロールを行わない)ということの重要性を学んでいくんですね。
さて、1時間ほどの昼食休憩を取った後は
いよいよ「相手の話を“本当に”聴く」という実習に入っていきます・・・
(その3に続く)
突然ですが
「娘よ、全道大会出場おめでとう~~~~!!!!


」
しばしばブログに登場する私の娘は、
いま中学校で吹奏楽部に所属しています。
彼女は2年前からフルートを習っていたのですが、
個人として演奏会に出たことはあっても
オーケストラ編成で楽曲を演奏するのは初めての体験でした。
ソリストはある意味自分のペースでやれるというか、
ピッチやチューナーを合わせることに気を遣わなくても済むのですが
オケの一員となるとそうはいきません。
指揮者やパートリーダーの要望に応えつつの音色調整もさながら、
部活ならでは人間模様もあって
ここ数ヶ月はホントーに大変だったと思います。
のんびりと自分のペースで音を楽しんでいた時代から
入部と同時に一転して凄まじいスパルタ教育になり、
親としては実にハラハラして見守っていたのですが。
激戦を勝ち抜いて代表校の座を射止めたときの
あの歓喜に満ち溢れた笑顔&涙を見たら、
それまでの大変さが一気に報われた思いでした。
(って、報われたのは娘であって私が何かしたというワケではないんですけど・汗)
高校野球を見ていてもそうですが・・・
ああ~~~
若いっていいねえ~~~(笑)

!!!!
ということで
お約束のアティテューディナル・ヒーリングの体験談を
お話しようと思ったんですが。
その前になんとなく
「書きたいな」と思ったことが頭に湧いてきたので
そちらの方を優先させていただきます。
私には、昔からそうなんですが
なんで「既にあるもの」に従わなければならないのか
いつも不思議に思ったりしているフシがあります。
「これはそれで決まりなんだろうか?」
「違う方法は存在しないんだろうか?」
「本当にこれが唯一の道なんだろうか?」
「他にやり方は無いのだろうか?」
・・・
「どうして皆これで満足しているんだろう?」
「これが絶対に絶対の真実なんだろうか?」
「誰もおかしいと思わないんだろうか?
それですんなり普通だと考えているんだろうか?
それとも
おかしいと思っていても声に出さないだけなんだろうか?
耐え忍んでいるだけなんだろうか?」
・・・
「誰も息苦しいと思わないんだろうか?」
「この枠組みから飛び出したいと願わないのだろうか?」
「もっと自由でいいと考えないのだろうか?」
いま目の前にある
社会的規範とか・・・常識とかルールとか。
いったい最初に決めたのはどこの誰なのか?
昔の「どこかの誰か」が決めたレールの上を
なぜ今現在も走らなければならないのか・・・?
・・・・・・籠の中のハムスターが
飽きずに回している滑車のように。・・・・・・・
と、そんなことをよく考えるんです。
いや、今まで考えて生きてきました。
そのことに思いを馳せるとき、
私の中の細胞のどこかで必ずや
「超えろ」
という言葉が響いてくるのです。
限界を超えろ・・・
常識を超えろ・・・
「当たり前の世界」を超えろ・・・
まだ誰も見ていない、新しい世界を見つけろ・・・
本当の自分自身を見ろ・・・
誰かが定義したのではない・・・
誰にも囚われることの無い・・・
ほんとうの、世界を・・・。
と、細胞の声は叫んでいる感じがします。
生来、非常に飽きっぽい私は
ひとつ処に留まっていられない
その飽きっぽさを長年短所にしか考えていませんでしたが。
この頃、それが同時に長所でもあることに気付きはじめました。
私はこれからも
誰にも組せず、誰にも頭を垂れず
誰にも支配されず、誰をも支配しないで
悠々と一人旅を楽しんで生きていきます。
細胞の声が導くままに・・・

・・・と、なんかイキナリ妙な宣言文をのっけちゃってますね

なんとなくこのことを書いておいてから
本題に入ったほうがいいような気がしたので書きました(笑)
ADH(アティテューディナル・ヒーリング)が
とても自分にマッチしていると思ったのは
「先生が生徒になり、生徒が先生になる」ことを公言しており
上下式の階層とか
派閥とか組織とかにはまったく無縁の、
ひたすら横のつながりだけを重視した
人の輪を創れるというところです。
次の日記では(たぶん)
ADHの原則やらなんやらをご紹介できると思います。
・・・といいつついつも以上に脈絡の無い文章になってしまい
大変読みづらくて申し訳ない~
ですが
自分的には結構すんなりいってる(笑)?カンジでございます・・・
ではまた次項!!!
「娘よ、全道大会出場おめでとう~~~~!!!!




しばしばブログに登場する私の娘は、
いま中学校で吹奏楽部に所属しています。
彼女は2年前からフルートを習っていたのですが、
個人として演奏会に出たことはあっても
オーケストラ編成で楽曲を演奏するのは初めての体験でした。
ソリストはある意味自分のペースでやれるというか、
ピッチやチューナーを合わせることに気を遣わなくても済むのですが
オケの一員となるとそうはいきません。
指揮者やパートリーダーの要望に応えつつの音色調整もさながら、
部活ならでは人間模様もあって
ここ数ヶ月はホントーに大変だったと思います。
のんびりと自分のペースで音を楽しんでいた時代から
入部と同時に一転して凄まじいスパルタ教育になり、
親としては実にハラハラして見守っていたのですが。
激戦を勝ち抜いて代表校の座を射止めたときの
あの歓喜に満ち溢れた笑顔&涙を見たら、
それまでの大変さが一気に報われた思いでした。
(って、報われたのは娘であって私が何かしたというワケではないんですけど・汗)
高校野球を見ていてもそうですが・・・
ああ~~~
若いっていいねえ~~~(笑)



ということで
お約束のアティテューディナル・ヒーリングの体験談を
お話しようと思ったんですが。
その前になんとなく
「書きたいな」と思ったことが頭に湧いてきたので
そちらの方を優先させていただきます。
私には、昔からそうなんですが
なんで「既にあるもの」に従わなければならないのか
いつも不思議に思ったりしているフシがあります。
「これはそれで決まりなんだろうか?」
「違う方法は存在しないんだろうか?」
「本当にこれが唯一の道なんだろうか?」
「他にやり方は無いのだろうか?」
・・・
「どうして皆これで満足しているんだろう?」
「これが絶対に絶対の真実なんだろうか?」
「誰もおかしいと思わないんだろうか?
それですんなり普通だと考えているんだろうか?
それとも
おかしいと思っていても声に出さないだけなんだろうか?
耐え忍んでいるだけなんだろうか?」
・・・
「誰も息苦しいと思わないんだろうか?」
「この枠組みから飛び出したいと願わないのだろうか?」
「もっと自由でいいと考えないのだろうか?」
いま目の前にある
社会的規範とか・・・常識とかルールとか。
いったい最初に決めたのはどこの誰なのか?
昔の「どこかの誰か」が決めたレールの上を
なぜ今現在も走らなければならないのか・・・?
・・・・・・籠の中のハムスターが
飽きずに回している滑車のように。・・・・・・・
と、そんなことをよく考えるんです。
いや、今まで考えて生きてきました。
そのことに思いを馳せるとき、
私の中の細胞のどこかで必ずや
「超えろ」
という言葉が響いてくるのです。
限界を超えろ・・・
常識を超えろ・・・
「当たり前の世界」を超えろ・・・
まだ誰も見ていない、新しい世界を見つけろ・・・
本当の自分自身を見ろ・・・
誰かが定義したのではない・・・
誰にも囚われることの無い・・・
ほんとうの、世界を・・・。
と、細胞の声は叫んでいる感じがします。
生来、非常に飽きっぽい私は
ひとつ処に留まっていられない
その飽きっぽさを長年短所にしか考えていませんでしたが。
この頃、それが同時に長所でもあることに気付きはじめました。
私はこれからも
誰にも組せず、誰にも頭を垂れず
誰にも支配されず、誰をも支配しないで
悠々と一人旅を楽しんで生きていきます。
細胞の声が導くままに・・・


・・・と、なんかイキナリ妙な宣言文をのっけちゃってますね


なんとなくこのことを書いておいてから
本題に入ったほうがいいような気がしたので書きました(笑)
ADH(アティテューディナル・ヒーリング)が
とても自分にマッチしていると思ったのは
「先生が生徒になり、生徒が先生になる」ことを公言しており
上下式の階層とか
派閥とか組織とかにはまったく無縁の、
ひたすら横のつながりだけを重視した
人の輪を創れるというところです。
次の日記では(たぶん)
ADHの原則やらなんやらをご紹介できると思います。
・・・といいつついつも以上に脈絡の無い文章になってしまい
大変読みづらくて申し訳ない~

自分的には結構すんなりいってる(笑)?カンジでございます・・・

ではまた次項!!!
またまたご無沙汰です(汗)
まったくあまりに不定期すぎて、
ブログを続ける気があるんだか無いんだか
自分でも呆れております・・・
さて、最近起きた出来事で
今の自分の心に最もズシンときたのは
「アティテューディナル・ヒーリング」の
ワークショップに参加したことです。
皆さんは、ジェラルド・G・ジャンポルスキーという精神科医をご存知でしょうか・・・
『愛と怖れ』『やすらぎセラピー』
『ゆるすということ』『ゆるしのレッスン』
などの名著を執筆した、アメリカの精神医学博士です。
この方が30年前に
末期小児がん患者とその家族の為に確立した「物事の捉え方」が
アティテューディナル・ヒーリングと呼ばれる心のセラピー方法なのです。
「アティテュード」という英語は
日本語では「心の姿勢」という意味合いの言葉になります。
人は、外部的な要素(自然災害や病気、他人の性格など)に対しては
それを変える力を持たないけれど、
内部的な要素(=自分の心の姿勢)は
思うがままに変えることができる。
起きている出来事に対して、
未来の杞憂も過去への後悔も持たず
「現在=いまこの瞬間」のただ一点に集中して
自分自身を生ききる姿勢・・・
それを教えてくれる考え方が
「アティテューディナル・ヒーリング」なのです。
私は主婦という立場上、
様々な場面で聞き役に回ることが圧倒的に多い生活を送っています。
もちろん耳障りのよい話ばかりではなくて、
家族や友人の愚痴や泣き言、否定的な言葉も聞く羽目になります。
それは「人間的に信頼されているからだ」と自分でも解ってはいるのですが、
あまり後ろ向きな言葉ばかり聞いていると
「いい加減にしろーっ!!!!
」
と叫んで耳を塞いでしまいたくなるときもあるんです。
自分で言うのもナンですが(笑)
私は非常に繊細な心の持ち主なのです
時には、愚痴を言った相手は言うだけ言って晴れ晴れとした顔をしているのに
ただ聞いていた私のほうが酷いダメージを受けていることもあるわけです。
かといって、いちいちその人間関係を切り捨てたり
身を隠して失踪するわけにもいきません(爆)
相手が家族ならば尚のことです。
どうせ話を聞かなければならないなら、
少しでも苦痛無く相手の話を聞くことができるようになりたいのです。
そこで「人の話を聞く」というスキルを磨くことに重点を置いている
アティテューディナル・ヒーリングのレベル1のワークショップに
参加することにしました。
今日はもう眠い(爆)ので
このワークショップの体験談と詳しい説明は
(その2)以降に続きますが
このワークショップは必ずグループで行うために
創始者のジェラルド・ジャンポルスキー博士が定めた
ガイドライン(指針)や原則に沿って進めることになっているのです。
それを学ぶだけでも
非常に価値があったと私は思っています。
次回はできるだけそこのところをご紹介していきたいと思います
このグループの素晴らしいところは、
6時間という濃いセッションを行うのに
場所代・お茶代・講師の招致代などを含めても
3,000円しかかからないこと・・・
レベル2やその先に進んでいっても
本当にお金がかからないことです。
「ヒーリング」と銘打たれているもののなかには、
目に見えない「気」・・・生体エネルギーを相手に注入するために
とても高額な料金を請求するものがありますね。
そして、それだけのお金を払って入れて貰ったエネルギーとやらが
はたしてどれだけの持続性があり、
どれだけの効果をもたらすのか、
正直申し上げて私はかなり曖昧だと感じています。
相手の方は「入った」と自信たっぷりにおっしゃるのですが
私は「・・・???」というカンジなのです。
まあ、霊的にニブいのねといったらそこまでですがね(笑)
そういうスピリチュアルなヒーリングにかぎって
やたら高額なのは気のせいでしょうか?
最初に誰が決めたのだか知らないけれど、
はっきり言わせていただきます。
「金額設定、間違ってますよ~~~
☆」
その点、自分の力で自分の心の姿勢だけを変える
アティテューディナル・ヒーリングは
私的には物凄い手応えを感じます。
「視点が違えば世界が違う」
まさに、今まで自分が見ていた景色ががらりと変わるんです。
腑に落ちない高いお金を支払って、人に変えてもらうんじゃない・・・
(しかも変わったかどうかもイマイチ実感できない・笑)
自分の力で、自分の意思ひとつで、
世界を変えることができるんです
ということで、私はこれからもっと深く
「心の姿勢」の勉強をしていきたいと思いました。
(その2に続く・・・)
まったくあまりに不定期すぎて、
ブログを続ける気があるんだか無いんだか
自分でも呆れております・・・

さて、最近起きた出来事で
今の自分の心に最もズシンときたのは
「アティテューディナル・ヒーリング」の
ワークショップに参加したことです。
皆さんは、ジェラルド・G・ジャンポルスキーという精神科医をご存知でしょうか・・・
『愛と怖れ』『やすらぎセラピー』
『ゆるすということ』『ゆるしのレッスン』
などの名著を執筆した、アメリカの精神医学博士です。
この方が30年前に
末期小児がん患者とその家族の為に確立した「物事の捉え方」が
アティテューディナル・ヒーリングと呼ばれる心のセラピー方法なのです。
「アティテュード」という英語は
日本語では「心の姿勢」という意味合いの言葉になります。
人は、外部的な要素(自然災害や病気、他人の性格など)に対しては
それを変える力を持たないけれど、
内部的な要素(=自分の心の姿勢)は
思うがままに変えることができる。
起きている出来事に対して、
未来の杞憂も過去への後悔も持たず
「現在=いまこの瞬間」のただ一点に集中して
自分自身を生ききる姿勢・・・
それを教えてくれる考え方が
「アティテューディナル・ヒーリング」なのです。
私は主婦という立場上、
様々な場面で聞き役に回ることが圧倒的に多い生活を送っています。
もちろん耳障りのよい話ばかりではなくて、
家族や友人の愚痴や泣き言、否定的な言葉も聞く羽目になります。
それは「人間的に信頼されているからだ」と自分でも解ってはいるのですが、
あまり後ろ向きな言葉ばかり聞いていると
「いい加減にしろーっ!!!!


と叫んで耳を塞いでしまいたくなるときもあるんです。
自分で言うのもナンですが(笑)
私は非常に繊細な心の持ち主なのです

時には、愚痴を言った相手は言うだけ言って晴れ晴れとした顔をしているのに
ただ聞いていた私のほうが酷いダメージを受けていることもあるわけです。
かといって、いちいちその人間関係を切り捨てたり
身を隠して失踪するわけにもいきません(爆)
相手が家族ならば尚のことです。
どうせ話を聞かなければならないなら、
少しでも苦痛無く相手の話を聞くことができるようになりたいのです。
そこで「人の話を聞く」というスキルを磨くことに重点を置いている
アティテューディナル・ヒーリングのレベル1のワークショップに
参加することにしました。
今日はもう眠い(爆)ので
このワークショップの体験談と詳しい説明は
(その2)以降に続きますが
このワークショップは必ずグループで行うために
創始者のジェラルド・ジャンポルスキー博士が定めた
ガイドライン(指針)や原則に沿って進めることになっているのです。
それを学ぶだけでも
非常に価値があったと私は思っています。
次回はできるだけそこのところをご紹介していきたいと思います

このグループの素晴らしいところは、
6時間という濃いセッションを行うのに
場所代・お茶代・講師の招致代などを含めても
3,000円しかかからないこと・・・
レベル2やその先に進んでいっても
本当にお金がかからないことです。
「ヒーリング」と銘打たれているもののなかには、
目に見えない「気」・・・生体エネルギーを相手に注入するために
とても高額な料金を請求するものがありますね。
そして、それだけのお金を払って入れて貰ったエネルギーとやらが
はたしてどれだけの持続性があり、
どれだけの効果をもたらすのか、
正直申し上げて私はかなり曖昧だと感じています。
相手の方は「入った」と自信たっぷりにおっしゃるのですが
私は「・・・???」というカンジなのです。
まあ、霊的にニブいのねといったらそこまでですがね(笑)
そういうスピリチュアルなヒーリングにかぎって
やたら高額なのは気のせいでしょうか?
最初に誰が決めたのだか知らないけれど、
はっきり言わせていただきます。
「金額設定、間違ってますよ~~~

その点、自分の力で自分の心の姿勢だけを変える
アティテューディナル・ヒーリングは
私的には物凄い手応えを感じます。
「視点が違えば世界が違う」
まさに、今まで自分が見ていた景色ががらりと変わるんです。
腑に落ちない高いお金を支払って、人に変えてもらうんじゃない・・・
(しかも変わったかどうかもイマイチ実感できない・笑)
自分の力で、自分の意思ひとつで、
世界を変えることができるんです

ということで、私はこれからもっと深く
「心の姿勢」の勉強をしていきたいと思いました。
(その2に続く・・・)
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プロフィール
HN:
ハピグレ
年齢:
56
性別:
女性
誕生日:
1968/06/27
職業:
地球人
趣味:
散歩・旅行・読書・音楽鑑賞
自己紹介:
幼少時より、ひとつところに長く居座ることが苦手な性格のため「天然スナフキン」の異名をとる。
迷子センター保護記録は一年間で最多7回。
安住の地を求める心が完全に欠如している、生まれながらのさすらい人間。
ニックネームの「ハピグレ」の由来は、本名を英訳すると「ハッピーグレイス」となるため。
・・・え?ひねりが足りないですか???
迷子センター保護記録は一年間で最多7回。
安住の地を求める心が完全に欠如している、生まれながらのさすらい人間。
ニックネームの「ハピグレ」の由来は、本名を英訳すると「ハッピーグレイス」となるため。
・・・え?ひねりが足りないですか???
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